Radio CON$

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京フェス

 2コマ目終了、3コマ目開始。

 本会企画3コマ目は「ティプトリー再考」。
 企画出演者は岡本俊弥さん、大野万紀さん、鳥居定夫水鏡子)さん、米村秀雄さん。

 『輝くもの天より落ち』刊行を記念して、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアについてのパネルディスカッション。伝記が今年のヒューゴー賞関連書籍部門を受賞したこともあり、ティプトリーの生涯を追う、という内容でした。
 お昼過ぎという事もあり、人としては眠かったのかもしれませんが個人的には非常に充実した内容でいい企画を見させてもらいました。
 岡本俊弥さん作成のパワーポイント資料をプロジェクタで写して進行。ユーモアを交えた解説もさることながら、この資料が何気に良く出来ていましたね。もちろんその他、年季の入ったSF界重鎮の皆様の適切なコメントも勉強になりました。

 以下、個人的メモです。
 メモですので、間違っている部分は私のメモ間違いで、資料作成者の間違いではありません。
 またティプトリーの生涯に関してはしかるべきいいサイトがあると思いますので、そちらも参照してください。もちろん書籍は言うに及ばず。
 こちらなんか結構よくまとめてあると思いますが如何でしょうか。
 なんでメモしたかというと、大体しか覚えていない事が多かったので。ティプトリーという名前をジャムからつけたとか、CIAにいたとかいう程度の知識しかなくって。



 また加筆修正します。
(以下、敬称略)

 ・ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、本名 アリス・B・シェルドン。1915年生まれ シカゴで育つ。
 
 ・1921-1922 最初のアフリカ探検同行。これについては書籍『ジャングルの国のアリス』(メアリー・ヘイスティングズ ブラッドリー (著)、宮坂 宏美 (翻訳) 、出版社: 未知谷、2002/12発行)に詳しい。続編は『Alice in Elephantland』でこちらは未訳。
 ・ティプトリーの生まれた1915年は大人向けに書かれ始めた頃。
 ・ティプトリーが最初にSFに触れたのは1929年頃。「ウィアード・テールズ」1929年2月号。
 ・1934 ウィリアム・デイビィーと最初の結婚。軍隊志願するまで画家、画家では大成せず。
 ・1942 軍隊に志願 WAACに所属。
 ・1944 空軍の写真解析官(大尉)。
 ・1945 同職のハンティントン・シェルドンと結婚。その後はジャーナリストや養鶏場経営。
 ・1950 この頃から(黄金時代に入る)SFの読書を再開。

 ・1952-55 CIAに勤務、実際は重要な職務につかず。(注:これも初めて知りました。CIA時代が何やっていたんだろう?という興味がありまして)
 ・1955 失踪事件。
 ・1955 ルドルフ・アーンハイム(1904-2007)に師事。
 ・1967 SFをペンネームTipで書き始める。52歳、体験とSFの進化が一致する。ペンネームはジャムからとった。
 ・1968 SFWAに加入。
 ・1971 この頃、ジェフリー・スミス(20歳)との親交、ル・グウィン(43歳)との親交あり。
 ・1972 ラクーナ・シェルドン登場。ジョアナ・ラス(35歳)との親交、フェミニズム論争。
 ・1973 最初の短編集『故郷から〜』(エース)。


 ・1977 「ティプトリーは女性だった」(Locus他)。
 ・1980 執筆を再開。
 ・1986 ティン失明、自殺をほのめかす手紙を書いている。
 ・1987 自殺。


 ・日本での初紹介は1973年3月(正確には1月)、『そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた』。
 ・この頃は、伊藤典夫の評価もさほど高くない(注:なぜ高くなかったかという事についての鳥居の説明がちゃんとあったが、上手くメモできず)。
 ・鳥居「騒いだのは僕が初めてかもしれない。この作品に衝撃を受けたのは(水鏡子『乱れ殺法SF控』青心社、1991年参照)SFにおいてマクロなスケールの話を書くとき、書割り的なキャラクターを設定するしかないと思っていたら、生理的に書いたという点。
 ・その一年後にヒューゴーネビュラ賞特集、『愛はさだめ〜』『接続された女』が掲載。
 ・ティプトリー、最初のブーム(1974年〜75年)
 ・そして目覚めると… 72年著→ 74年翻訳
 ・苦痛指向 72年著→ 74年翻訳
 ・愛はさだめ、〜73年著→ 75年翻訳
 ・接続された女 73年著→ 75年翻訳

 「ティプトリーは女性だった」(1977年1月)
 ・ハーラン・エリスンの所に匿名の手紙が → シルヴァーバーグが言いふらす(注:不勉強なので、初めて知りました。本当なのか、こないだ誰か聞いたのでしょうか)
 ・1977 『Locus誌』
 ・1991 「乱れ殺法SF控」
 ・大野(ノヴァ・エクスプレス No.3でティプトリー女性を日本で最初に報じる)「びっくりしたというよりは、面白かった。伝記を読むと、男だ女だというより、SFファンだったという事が重要」


 「2回目のブーム」(1977〜80)
 ・故郷に歩いた男 72年著 → 77年翻訳
 ・ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?  76年著 → 78年翻訳
 ・ラセンウジバエ解決法  77年著 → 79年翻訳
 ・エイン博士の最後の飛行 69年著 → 79年翻訳
 ・雪はとけた、… 69年著 → 80年翻訳
 ・煙は永遠に立ちのぼって 74年著 → 80年翻訳

 ・鳥居「ティプトリーが女性と判明して、女性が訳したほうがいいのではという向きから男性の訳者もしり込みするようになった。また、この頃からフェミニズムによる小説への拘束が強まり、やや女性に対する反発があったのではないでしょうか」

 「心中/自殺」(1987年5月)
 ・1987年5月 SFマガジン ティプトリー追悼特集(表紙に記載なし)。
 ・1987年 SFマガジン 10月号 チャールズ・プラットによるインタビュー掲載。
 ・チャールズ・プラットによるインタビューはやや脚色されている模様。
 ・この後、ティプトリー再評価高まる
 ・鳥居「死んだ事より、生き様に対して衝撃を受けた」

 ・97年12月号 SFマガジン ティプトリー特集組まれる。

 ・最後に、出演者から一言(注:各人さすがというコメントをされていまして、以下の再現度は半分程度。しかし聞いたまま流すのはもったいないのでここに記させていただきます。どうかお許し下さい)。

 ・米村「『故郷から10000光年』が初期ベスト。個人的に、短い作品ほどティプトリーは良い。『愛はさだめ、さだめは死』のタイトルは原題("Warm Worlds and Otherwise")どおりにして欲しかったな」
 ・鳥居「ブームが引き続いているのは『たったひとつの冴えたやりかた』が出たからでしょう。1972年までの作品が非常に良い。73年以降は小説を書く事の義務感が見え、『たったひとつの冴えたやりかた』や『輝くもの天より堕ち』はその当初に戻ろうとしていたのではないかと思える」
 ・大野「50歳超えてもSFを書きながらSFファンの心を持ち続けた作家で、そこに近しいものを感じる。遅くにデビューしたので、後年は齢のためか内容の飛躍が足らないことなどを悩む面もあったようだ。まだまだ作品があり、この翻訳ペースで行くと、あと20年はティプトリーを楽しめそうだ(笑)」(注:ティプトリーはいろいろ作品はあるのですが、翻訳ペースが遅いためこんな話が出た)
 ・なお、鳥居定夫の計らいにより、ティプトリーに関するファンジンベスト3が会場に回された(みな口々に「戻ってこなくなりますよ」と冗談を言っていた)。
 ・また、アリス・ブラッドリー名義で書かれた最初の小説が掲載された雑誌?という貴重な資料も会場で観る事ができました。


 ・以下は私の総括となります。
 これはトークショー中も語られていましたが、ティプトリーというと一般的には男性的な面の強い女性、というイメージがあります。しかしその生涯を辿ると、実に苦悩と弱さが見えてきて、そのまた奥に「SFファンとしてのティプトリー」が見えてくる……というのが新鮮でした。
 ファンの集まりにふさわしいパネルディスカッションだったと思います。