
イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
- 作者: スティーヴンミルハウザー,Steven Millhauser,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1998/08/01
- メディア: 単行本
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皆様こんばんわ。
「読書感想しりとりリレー2006」のお時間がやってまいりました。本来は水曜アップのところ、またまた遅くなりまして申し訳ないです。別に待っていた訳じゃねぇや、と言われるかもしれませんがそこはそれ、しりとりリレーなのでつかえると後が大変でして。
突然ですが「MYSCON7」参加の皆様、お疲れ様でした。この企画でさんざん海外だ海外だと言っておいて海外もの企画の方に参加せずに読書会の方に参加したポリシーのかけらもない人間です。今度5/3に「SFセミナー」というイベントがありますのでそこでは一応………と思っていますが、他の皆様の圧倒的な読書量に圧されて何も言えなくなっている事でしょう。あ、昼間にワールドコン2007の登録申し込みなどやっているかもしれませんので、是非この機会にお申し込み頂ければ幸いです。宣伝。
そんな反省を生かし今回は基本に立ちかえりまして、白水Uブックスです。何せカバーに「海外小説の誘惑」って書いてあるんですから、私にピッタリと言えましょう。
和泉さんから回ってきたのは『ゲームの名は誘拐』の「い」。
私が選んだのはスティーヴン・ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』。もともとアーケードゲームファンである私が選んだのだからゲームの話のようですが、違います。比較するのも変な話だけど、アーケードゲームと同じくらい好きなレイモンド・カーヴァーに近い。日常の不思議さを不思議に描かないこと。それでいて、読んだ方に不思議な雨が降るこの読書経験。
多くの小説には物語があり、次の小説に人々が目をうつすときに、前の物語が横糸となり現実を覆い隠す帳の様に「いま」の小説が降ってくる。ところがある種の小説は前ではないどこか遠くから糸玉を拾ってくる。
スティーヴン・ミルハウザーの作品もそういった効果があります。
さて、各作品を………。
・「アウグスト・エッシェンブルク」………天才人形師の人生を描いた中篇。
昨年の「読書感想しりとりリレー2005」でも紹介したパトリック・ジュースキント『香水』やクリストファー・プリースト『奇術師』のような話か、と思わせておいて天才の技術と人間性が乖離していきます。よくよく見ると歴史の中において主人公は天才なのかと疑問が生じる頃にすっと終る。心地よい倦怠感のある作品で、この一冊の中では表題作と同じぐらい好き。
・「太陽に抗議する」………博士を父に持つ娘が、一家で過ごす浜辺の午後。
この後の「湖畔の一日」と対照的な作品ながら、根本は同じところに着地しているところが興味深かったです。個人的には、女性の中の関数の様な「年齢」についてうっかり描いてしまった作品ではないかと思うのですが、どうでしょうか。
・「橇滑りパーティー」………キャサリンが行ったパーティーでは、橇滑りが行われたが………。
最初の作品からここまで読むと、おやおやと思う所に位置する静かなラブ・ストーリー。今、再読してみて解ったのですが第二部の三作品は面白い関連性があります。
・「湖畔の一日」………湖畔の観光地で一日を過ごす女性編集者の心理風景。
他人との距離において黒いというほどでもないものの、影色が心に湧き出す状況を描いた小説として基礎ができている作品。自宅で独り言をいったことのない人には全くお勧めできません。
・「雪人間」………晴れた冬の日、雪景色の中で見える雪人間とその後。
ここから「第三部」となってこれまた前部とは趣の違った三つの短篇が掲載されている。最後の部だからなのか、遊び心を基調としつつも未来・将来という事柄がさりげなく関わってくるのが上手い。
・「イン・ザ・ペニー・アーケード」………少年が訪れたペニー・アーケードは、かつて彼が憧れたものではなかった。
前作と同じく少年を題材とした表題作は、少年の自意識を幻想的に扱った短篇でこれも好き。一見ブラッドベリが扱いそうなモチーフだけど、一語一語にかけた手間が感じられます。
・「東方の国」………幻想の中国を項目別に描く。
一番不思議な味わいのする一作を最後に持ってくるのは変な感じもするのだけど、これが恐らくスティーヴン・ミルハウザー本来の味わいなのでしょう。
最後に、掲載しようかどうしようか迷って今回の遅れの原因となった訳者・柴田元幸の巻末あとがきから引用して締めたいと思います。
それでは次のあちゃぞうさん、「ど」でお願いします。
ミルハウザーの登場人物たちが体験する驚嘆の引き金になっているのは、多くの場合「退屈」である。底知れぬ深い退屈である。いささか大げさにいうなら、現実に対する、自分がいまここにあることに対する異議申し立てとしての退屈である。